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現在死語辞典 (あいうえお)

見たり 聞いたりしたことはあるけれど、よく知らない
以下 注 は岩波国語辞典 第三版 より

あ あいのこ 間の子 合の子=所謂ハーフ
    注
 雑種 混血児 どちらともつかない中間のもの

 ハーフ、といえば、今や芸能界、スポーツ界を席巻している感がありますが、そもそもは“蔑称”として、蔑まれた生い立ちを持っていた人たちのことでした。太平洋戦争のあと、駐留していたアメリカ兵と日本人女性の間に生まれた子どもたち。兵士が次々と帰国して、女性にも見放され、孤児として暮らしていました。
 そんな子どもたちを引き取って、施設を作って育て始めたのが澤田美喜という女性、施設は『アメリカズサンダースホーム』と名付けられていました。記録では2010年1.400人もの出所者か居たといいます。

 同じ時代、現在著名人として知られる人の中にも混血児として、子供時代を苦しんでいた人も居ます。時代が遡ってしまいますがオペラ歌手の佐藤美子、同じくテノールの藤原義江、指揮者の渡辺暁雄などです。そして、博覧強記の詩人・作家でもあった平野威馬雄氏です。彼らは同じように、孤児たちを集めて『レミの会』を作って活動しました。どこかで聞いたことのある名前。
 テレビを付けていて見ていなくても声でわかる平野レミは長女、シャンソン歌手でデビュー、イラストレーターの和田誠さんと結婚、今は料理愛好家として賑わせています。彼女はだからハーフではなくて『クウォーター』ということになります。
 彼女の兄は(紹介が逆になって失礼)平野琳人(よしと)さん、イラストレーターで、私も各種情報誌でお世話になりました。ルイ・シンという名で、猫のイラストが人気です。

 1900年生まれの平野氏は「平野威馬雄二十世紀」という書籍を刊行しました。私も編集に携わり、おかげで、出版記念会の司会を例によって任せられてしまったこともありました。この書籍は、私家出版の形をとったようで、氏の書籍例には入っていません。

イラスト ルイ・シンさんの賀状から


余聞
 上記したような例とは違いますが、戦前から、ハワイやブラジルに移民して、現地で結婚、子どもをもうけた人も人も、ハーフと言えるかもしれません。私がよく覚えているのは、プロボクサーの藤 猛。日本で行われたウェルター級タイトルマッチで、当時のチャンピオンサイドロ・ロポポロにノックアウト勝ちを治めた試合。試合後の片言のインタビューで“カッテモ カブッテモ オオ”と言ったときのこと。彼は日本語の諺「勝って 兜の 緒を締めよ」を聞かされていて、思わず口にしたと思われます。こんな英雄もいたのですね。
 戦後、物資の乏しい時代、残り物の毛糸をいくつか繋ぎ合わせて、チョッキを作ったりしていた女性たちのいました。“これ、アイノコで作ったのよ”なんて、結構楽しそうで、見た目も面白い作りになることもありました。パッチワークの語源はアイノコだったのですね。
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     あんか 行火 =お一人様用炬燵
     注 炭火を入れて手足を暖める小ぶりな道具

 私の祖父母は、二階建ての母屋から庭を隔てた晴れの家に住んでいました。祖父は宮大工だった人で、自分で50センチ四方位の木枠を組んで、行火を作っていました。手前には上に開くような「扉」も作り、小さな火鉢に炭を熾して、布団の中にてを差し入れて暖まっていました。その向こうで、婆さまが火鉢に手をかざして、煙管でタバコを吸っていたのを、今でも覚えています。
 今度の冬には、お一人で、みかん頂くのもよし、ちょっと一杯やるのもよし、かなり贅沢気分のお部屋になること、請け合いです。






   いぬころし 犬殺し=野犬狩り

 私達のマンション、同じフロアに12歳になるマルチーズがいます。二軒隣には、黒毛の柴犬「まめちゃん」、五階に小型のバセットハウンド、一階には3歳くらいになるマルチーズの「オモチ」が、毎日6時ころに新聞を取りに行くときに、トイプードルがお散歩に行くのに会います。ユフィは出かける時間が違うので別のワンちゃんにあうこともあるようです。
 マンションの向こう、川沿いの遊歩道は、朝夕、オモチャのように見えるワンちゃんの散歩が頻りと見られます。いつも私が散歩に行く辰巳の森海浜公園も然り。

東京都立 木場公園のドッグランで


 ペットブームがよくわかる微笑ましい光景ですが、一方、多頭飼育崩壊や、飼い主の老齢で手放されるペットもあって、処分が問題に、そしてこうしたペットを保護する活動もされています。また自治体では例年、狂犬病の予防接種も行われていて、我がマンションでも、犬を飼うためには、この証明が必要になっています。しかし、1950年以前は、所謂野犬・野良犬も多く、子どもが噛まれて狂犬病を発症するような事例もあました。
 そこで登場したのが、犬殺しです。リヤカーに籠を付け、針金の輪で犬の首を捉え、役所で処分することがあったのです。
 当時は放し飼いにしている犬も多く、首輪に鑑札を付けていても連れ去られることも合って、帰ってこない犬にあわてて、役所にもらい下げに行く、という家もありました。

 私の家には、母の知人から貰ってきた雑種の犬が居て「マル」という名が付いていました。兄たちも可愛がっていた犬です。当時の我が家は200坪ほどの土地に母屋と庭を挟んだ離れ家があって、マルはたいてい放し飼いで庭で遊んでいることが多かったのです、雑種は頭がいい、と言われていた時代、マルもまあその口で、お隣のご主人の帰宅する足音を聞きつけて、毎夕通りまで迎えに行っていたといいます。お隣とは垣根に通りがあって、よくご主人からおやつも貰っていたようです。

 ある日、近くの奥さんが飛び込んできて“マルちゃんが犬殺しに捕まった”と。母が咄嗟に何がしかの小銭と、父か゜吸っていたタバコの封か切っていないものを掴んで、まだリヤカーに乗せられたばかりのマルを連れ戻しに行ったことがありました。マルはそれからしばらく、鎖で小屋に繋がれたままになりましたが、夕方になれば離されて、隣のご主人のお迎えに行くようになりました。

余聞
このコラムを書いていた令和3年、2021 11月4日 の産経新聞一面のコラムに、犬殺し、の歴史記事が掲載されていたので、そのまま紹介します。
『もともと日本人には犬を売買するする習慣はなかった。犬の多くは各家の所有物ではなく、村の犬として平穏に暮らしていた。ところが幕末開国から明治維新、文明開化に至って、事情が大きく変わる(犬たちの明治維新)外国人が持ち込んだ洋犬がもてはやされ、路上をうろつく和犬は退治されるようになった。明治6年には、首輪を付けず名札のない犬は打ち殺してもかまわないとする「畜犬規則」が各府県に出される。例外は「日本史上最大の愛犬家」である西郷隆盛が下野した鹿児島県だけだった』
 因みにこの日も長野県松本市で、多頭飼育崩壊で1000 もの犬が虐待され保護されたというニュースが流れました。





 うりざねがお 瓜実顔=昔の美人顔
   注 中高(なかだか)でやや面長(おもなが)な顔。昔の美人の一つの型、「うりざね」   は、瓜の種のこと。

 浮世絵はもちろん、昔の所謂美人画は、おしなべて、このうりざね顔がほとんどと言える。近代の中原淳一の、目パッチリのかわゆい少女ではなく、伊東深水の、細面の儚げな美人画でもない、なにか存在感のある、どっしりした女性は、本当にそんな感じの人達だったのかと、まあ、確認するすべもない、納得の美人たちなのですが。

 現代で瓜実顔といえる美人は、いるのでしょうか。ジャックが物心ついた時代、兄たちから何かと影響を受けた経験からすると、唯一思い出されるのは「丹下キヨ子」、俳優であり、ボードビリアンであり、歌も歌ったエンターテイナーです。まあ長い顔が売り物だとも言えるし、目鼻立ちのはっきりした女性でした。テレビがまだそれほど広まっていなかったので、昔の映像で楽しむしかないのですが、一度、ネットで見てください。

 然らば、現在の女優に瓜実顔が存在するか、という問題ですが、ジャックの独断で言えば、丹下キヨ子に匹敵する、といえば、高畑淳子のとどめを刺す、と言えるかもしれません。最近はバラエティーへの出演が多いようですが、その、顔のデカさは他の出演者の群を抜いています。特に、時代物の鬘姿のシーンは、いや増します。
 小顔が現在の美しさと言われます、なかなか瓜実顔が幅を利かせる時代はもう来ないのかもしれませんが、珍しい映画の配信もあるネットフリックスで、探してみようとも思っています。





 えんがわ 縁側=鰈(かれい)のそれにあらず、日本家屋でのこと
    注 家の座敷の外側にある細長い板敷き。えん。えんさき。

 私の葛飾の実家は、茶の間から、六畳間、八畳間を通って手洗いへの曲がり角まで廊下が続いていました。雨戸を閉めるのに八枚くらいの雨戸を、戸袋という雨戸を収納する廊下から突き出すように作られた小屋から引き出して、茶の間まで鉄製の板を敷いたレールの上を滑らせて閉める、という作りで、兄たちの役目、朝は母が逆に雨戸を開けていたようです。
 茶の間に近いガラス戸は、庭への上がり下がりに便利なように、「靴脱ぎ石(くつぬぎいし)」と呼ばれる、高さ30センチほど、横幅1メートルほどのコンクリートの石がありました。我が家の廊下は1メートルほどの高さがあり、子どもたちはこの石のところで下駄や草履を脱いで上がり下りをしていました。(余談ですが昭和22年のキャサリン台風で、利根川の堤防が決壊して洪水となり、この高い廊下を超えて40センチほどまで浸水しました)

私の実家での写真、私はまだ生まれていない。兄たちと従兄弟たちが集まった珍しいもの、昭和10年代。


 この廊下と縁側は同じ意味のようですが、廊下の意味には「家の中の細長い通路」というものもあって、大きな屋敷では、縁先の廊下とは別に座敷と座敷の間の通路、つまり「中廊下」というものもあったので、我が家の場合は「縁側」が正しい。
 縁側といえば、雑巾の拭き掃除も大変でした。兄たちが掃除しているのを見た覚えがないのですが、私はよくやらされました。バラエティーの番組で、長い廊下の雑巾がけを何秒でやるか、なんていうのを見たこともありますが、なかなかの労働です。

余聞

濡れ縁、という言葉もあります。ドラマや映画で、雨戸の閉まった暗闇の中、男女が縁台に座って何やら話し込むようなシーンがあります。これが「濡れ縁」、雨戸の外で、雨に濡れたままになるので、こう呼ばれました。手洗いの近くに設えられて「手水鉢(ちょうずばち、手洗いの水を張った陶器や金盥=かなたらい)」を置く習慣もありました。

 NHKのテレビ番組「チコちゃんに叱られる」の最終コーナー、日だまりの庭で。チコちゃんと岡村くんが座っているのは、長めの濡れ縁、足を掛けているのは、靴脱ぎ板。なかなか昭和のセットが生き生きとしている。

えんがわ あり〼






 おわいや 汚穢屋=便所の汲取りをするもの。
   
この項 昭和40年版 広辞苑による

 のっけから余聞ですが 、昭和20年代のこと、小学生だった私は文京区・湯島天神下、当時でも珍しい木造三階建ての、二階に住む叔父と、一階で駄菓子屋をやっている叔母の家によく遊びに行っていました。年上のいとこと、叔母の家の飴玉やガムを頂くのが楽しみでもあったのです。そして、ここの便所、おばさんに聞かされていたのかはよく覚えていないのですが、初めて入ったとき、便が陶器の便器の上に乗っかる、という驚きがまずありました。そして終わったあと、上から伸びた鎖条の紐を引っ張ると、ゴー、という音とともに、便が流れ行く様に「座リすくんで」しまったのを今でも覚えています。この当時、東京でどの程度水洗トイレが進んでいたのかはわかりませんが、この親戚のある一体には、浄化装置がすでに整えられていたのですね。

 翻って我が家の便所。玄関から二階への階段の下、扉を開けたところが小便用、左の扉を開けると大便用。逆に、居間の廊下を通って便所へ行けば、小便用、右の扉を開ければ大便用、と大が小に挟まれる、という贅沢な便所ではありました。便壺はもちろんそれなりに大きかったのでしょう、最大十人の家族でしたから。
 そして、この便壺に溜まった糞尿は、おそらく一ヶ月置き位に汚穢屋が汲み取りに来ていました。木製の樽にイッパイ、二樽ぶん、入れ終わると、天秤棒の前後ろに下げて運びます、零さぬよう慎重です。トラックに積み込んで行きました。。このときの費用がどうなっていたかはね母親でないとわかりません。当時の私には確かめようもありませんでした。

 こうした糞尿は、当時の畑の下肥として重宝されていたことも確かで、農家としては貴重なものだったのかもしれません。私の通学していた中学は、畑に囲まれていて、春先は、この下肥を施す香気が、教室を包んだものです。

余聞
後で聞いた話ですが、この汚穢屋の指摘で“お宅の家には、糖尿の患者がいるよ”と言われる家がよく在ったそうです。私には分析出来ませんが、いつもと違う臭気があったようなのです、汚穢屋、只者ではない。

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    おいど=おしり
    御居処 この項の漢字 昭和40年版広辞苑

 この用語、なぜ掲載したか、昔母親が時々口にしていた言葉なのです。普段使うことがないので、もしかしたら『やんごとなき人々の言葉』かとも思いましたが、我が家がこれに列することはありえない。試しに、と思ってネットで検索してみたら、いくつか説明がありました。この内で納得が出来たのが『京都地方で使われていた言葉』ということでした。そういえば、両親は7~8年ほど、転勤で京都に暮らしたことがあったのです。私が生まれるはるか前。そのときに、周りで使われていたのでしょうね。

 御 は接頭語  居処はお尻を表すとのことです。
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