やましたさんちの玉手箱
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デイホームでの納涼大会で浴衣に

母の浴衣姿が大評判になった

母の介護の話を書く前に、浴衣の季節が来てしまったので、先に書くことにした。
母は30代までは和服姿が多かった。
渋谷で飲食店経営でもあり、和服は仕事着だったから。

少し襟元を緩めた着こなしで、女優の杉村春子さん風の粋な着付けだった。
東北出身で色白・もち肌で、ユフィやサーヤと違って美人だったから、和服姿はよく似合っていた。
親族間では、母の和服姿は定評があり、人気もあった。

●孫娘であるサーヤのお宮参りに
サーヤのお宮参り/濃紺の紗の着物姿が粋

母が40代になった頃、ユフィが杉野ドレスメーカーを卒業、ファッション誌に勤務した。
その頃から、ユフィは母の専属デザイナー兼縫い子になる。
どうも母は、ユフィをそういう方向にもって行きたかったらしい。
母の思うとおりになって、母は和服姿から洋装へと変わっていく。

それでも、ユフィは小学校時代から日本舞踊を習い、長唄・三味線のお稽古をしていたし、和服は自分で着れるくらいだった。
習い事に人の手(母の手)を借りることを認めてくれなかったから、一人で覚えた訳。
日舞は近所の先生が引っ越してしまい、そのまま終わった。
が、高校入学と共に「茶道」を習いだしたので、卒業後はそのままお稽古に通うようになり、母は新年会や稽古用の和服を誂えてくれるようになっていたった。

思い出に残る和服は、呉服屋の招待で京都まで行き、紬に草木染で大きく抽象模様を染めた反物、かなり奇抜な色柄で高価でもあったのだが、母はユフィが気に入ったと見ると何も言わずに買ってくれた。
このときの夏場の洋服もユフィの手作りのもので、暑い京都を涼しく過ごす為の生地選びに凝ったこと、白い生地で母子でデザインを変えたことを思い出した。

母もユフィも、和服・洋服を問わずにお洒落にはお金を惜しまなかった、のだと思う。
そんな時代があったことを思い出し、「母に感謝しなくては」と今さらに思う。

さすがに世田谷に一軒家を購入し、ユフィとジャックとの2世帯での生活になってからは、和服にお金は掛けなくなった。
仕事着は必要でなくなったからだ。
その分、ユフィが茶道などで着ることが出来ればよかったのだが、母の好みとユフィの好みが全く反対。
また、似合わないものは絶対に着ないユフィは、母の和服は袖を通したことがない。

母は袖を通さなくなった和服は、最高級品は残したけれど、殆どを田舎の親族に送ってしまった。
その代わり、毎年の季節ごとの洋服はしっかりとユフィが作っていたけれど…。
という訳で、母は浴衣を持っていない。
古い浴衣地はサーヤのオムツにしてしまっている。

2回目の脳梗塞の入院から戻ったとき、2度目のデイホームに「ケアマネさん」が選んでくれた園がとても良かった。
最初は母の友人に誘われて行った園、3ヶ月の入院中に次の人を入れるために断られていたが、返って良かったと思ったくらい。
お誕生日には写真とカード、生け花をしたからと一緒の写真、こまごまとした内容がとても楽しそう。

そして、納涼大会で「浴衣がありましたら、着て来てください」の連絡。
ユフィは子供時分の日舞の経験を活かして、「新舞踊」を自主的に友人達と週一で楽しんでいたので、新しい浴衣を持っていた。
帯は母のもので、昔の白黒の博多織、粋な半幅帯。

背筋を伸ばしてステッキ片手に
母は背筋が伸びたシャンとした姿勢なので、大きな扇面柄の浴衣がよく似合う。
半幅帯を粋な貝の口に結んで、ひさしぶりの浴衣が嬉しそうだった。
下駄は、ユフィの庭履き用のユニクロ製。黒塗りの下駄に白の綿入りの鼻緒が履きやすい。

多分、若い頃の渋谷の店での姿を思い出していた、と思う。
盆踊りや夜店風の様々な催しを、充分に楽しんだらしい。
スタッフさんが送ってきたときに「やましたさんの浴衣姿が大好評だったんですよ」と教えてくれた。

真っ白なヘアが紺地に白の扇模様に良く似合う
母の満足そうな表情を見れば、母自体が嬉しかったのはよく分かった。
女性はいくつになっても、人様に褒めていただくのが大好きだ。
特に母は昔から人に褒められる生活をしていたから、昔を思い出して嬉しかったのだろう。
家族の褒め言葉より、数倍の効果があると思う。

母の浴衣姿の写真1枚で、思い出はものすごく古く、そして広がっていった。
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