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昭和の初め およそ百年前の食べ歩き本

 今の世の中、食の時代、飽食の時代、食品ロスの時代、おまけにコロナ渦のために、家での食事が増えています。統計では、食品にかける費用が増大していて『エンゲル係数』が大きくなっているという、世はまさに、食い物で賑わっているようで、その裏では『総貧乏世帯』が増えているというのです。
 テレビを点ければ、午前中は料理研究家や愛好家による、レシピを使ったアイディア料理、オリジナル料理が、昼には帯番組で地方の料理やテーマによる特集など、午後のニューショーを挟んで、夕方からは所謂『食レポ』と称してあちらこちらの店を訪ねて自慢の料理を紹介する。
 一方、新聞では家庭欄でも料理の記事が毎日を飾り、書店へ行けば、料理のコーナーが幅を利かせる、と言う塩梅。

 こんなブームを作り出した源は、二昔ほど前にテレビのゴールデンタイムを貸し切り状態にして、名だたる料理人を一度に登場させた『料理の鉄人』なる番組だったかもしれません。以来、名だたるシェフはバラエティーのシェフとなり、夜の時間帯でも料理番組でいける、という食番組の全盛となったようです。
 その一方で、食レポのレジェンドとなって今のメディアの道を作った、と思われるのが、山本益博なる中年の男でした。名だたる店の名だたる料理を覆面で食べ歩き、その味はもとより、調理法、店の佇まい、料理人の評価までを思う存分に評価・糾弾までもやってのけたものでした。店にとっては、来店されるのが恐怖でもあり嬉しくもあったという、読者にとってはたまらない記事が続いたものでした。

 そんな食レポの歴史をたどる、同じ、中年男数名が、新聞の家庭欄に掲載すべく、食べ歩きを敢行したのがこの書籍。1928年、昭和3年に連載を始め、後に書籍化したものです。ただ、現代と違っていたのは、今のようなメディアは全く、と言っていいほどなく、ひたすら、グルメでもない男が、興味で食べてみる、見回してみる、絵に残してみる、もちろん評価もしてみる、という庶民目線の食べ歩きなのです。
 世の中の食品の、およそ7割は食わず嫌いで、偏食家、ともいっていい私が、この本の評価をするのはおこがましいのですが、読んでみると、現代のようなカタカナ料理材料なと登場すべくもない、親しみのあるものに出会った感じで、紹介したくなった次第なのです。

『東京名物 食べある記』(復刊)
時事新報社 家庭部「編」  教育評論社  1.500+税


いくつかのテーマから拾ってみます。

銀座松坂屋食堂
 ーーー(店内に入って)万引眼凄まじく、ガラスの中をネメ回し、しばらくは駄菓子屋 へ 駆け込んだ子供よろしく、あれこれ迷った挙げ句の果て
 S カツレツ丼五十銭に鮎ずし四十銭。
 M 強飯(こわめし =おこわ)三十銭とフルーツゼリー十五銭
 K 子供ランチ四十銭、白玉十銭、
 久 御子様ずし二十銭、パパイヤ十五銭、


 S この程度なら家のお台所でも作れそうな気がするね。鮎ずし、材料はいいけれど味がなってないね。
 M この強飯は香の物が貧弱ですね。それに栗をあしらったのは、取り合わせが悪いーーーオンヤ栗だと思ったら馬鈴薯だ。フルーツゼリーは、食紅の味がします。
 K 子供ランチは、いくら子供でもご飯が少な過ぎますね。(小柄なKが云うのだから間違いない お菜はなんです)タンシチューです。オヤ、ビーフもあります。ビーフの方はまずい。白玉はどこもおんなじでしょう。
 久 このまぐろは、山葵が利いてない。小さくて食べいい、お姫様向きでするパパイヤの種は少し気味が悪い。
 S 蛙の卵のカエリたてがそんなふうです。久なかなか香りがいい。

 M あの女給さんの靴下はいやな色ですね。(全体から見て)上衣との調和を考えてのことだろうけれど。 と云いながらスケッチをはじめる。

 
 
  女給さん満点。食べたものをすぐ片付けてくれるのがうれしい。訓練の届いているのはいいが、手の空いた女給さんが番兵のように柱鏡にとりまいてつったっているのはチト冷たい感じがする。ーー監督さんが腰掛けさせましたよ、ホラホラ。それに、子供が食物に手をつっこんだら、さっそく女給さんがナフキンを首にかけてやった心づかいは、ほめてやってもいい。
  とにかくどこへ行っても同じ程度のものばかり食べさせられるので食べ歩きももあんまり楽な仕事ではない。殊に食欲不振の今日此頃。入梅は本格だそうだ。まだ降ってる。


本文は旧カナ使いになっているので、多少整理しています。この項のほか、現在もあるデパートの食堂レポートも収められています。どうも、当時の食堂は、現在で言えば、ファミリーレストランのようなものだったような気がします。特別なものを食べに行くというより、そこへ行ってみて、というわけです。食べたいものを皆で物色する、家族でそれぞれの好みを選ぶ楽しさが伝わってきます。
本文で登場する『女給さん』という言葉ですが、『失われていく仕事の図鑑』(株式会社グラフィック社)では、喫茶やカフェーの女性ボーイ として紹介されています。女給という呼称は1920年以降には定着していた、と書かれています。本誌では夜の探訪には触れていませんが、夜の店では現代のホステス的ウェイトレス』と言っていいのでしょうか。

四人組に比較的評判の良かった、日本橋白木屋食堂の女給さん。

本誌の付録として、『劇場食堂評判記』が掲載されています。帝劇 歌舞伎座、新橋演舞場、明治座、本郷座、市村座、新歌舞伎座。いずれも、劇場の中にある食堂のルポ。当時の劇場は中に食堂が併設されていたようで、当時の人達の、芝居を楽しみながら食事も楽しむ、という、豊かな心を感じさせてくれます。
 そういえば、21年前期の「朝ドラ・おちょやん」は芝居小屋の隣りにある食堂、より少し高級なお座敷で料理を供する「岡安」という店が中心でした。東西と時代の違いはあれ、芝居と料理を楽しむ粋な楽しみを知ってた、当時の様子も、このあたりから、引き継いでいたのかもしれません。


神田の藪
 ここで、当時の食費がどのくらいだったのか、知りたくなりました。「銭」の単位がよくわかりません。一番馴染みがあるかもしれない、蕎麦やの項で見てみます。巻末の紹介では、正しく換算出来ないけれど、と云いながら、一円が大体参千円見当としています。

  神田連雀町の藪、まずそばやとしては代表な定評ある店の一つだろう。ーー店構えはちょっくら小粋なもの、縄暖簾をくぐると相当客で賑やかだ。
 “ゴシンキ、天ぷらに山かけ、せいろうにマーイ”小女の住んだ声。天ぷら四十銭 山かけ三十五銭 M。
 せいろう十三銭 S M
 そばずし二十銭(すしののりまき米をそばにかえたもの、そばっくいには余り香しからぬものだが)相当これも戴けた。
 化粧室の綺麗なことは昔から有名だが、バラック建てとは云え、清潔で良い。つゆもよし、たねもよし、勿論そばはうまく、薬味のわさびがこれはまた上等で流石に藪だと大体一行感心する。

小説家 永井龍男の短編「冬の日」にはそば屋のことがよく出てくる。「文学はおいしい 小山鉄郎 作品社」。連雀町のやぶへ行く話が登場します。 

円タク
 本誌で時々登場しますが一円で、一定地域に自由に乗れるタクシーのこと。定額で乗れるタクシーも最近制度により可能になっているようですが、随分と時代遅れの感じがします。もっとも「白たく」は随分昔からありましたが。
 

お汁粉十二ヶ月
 テレビ番組の中でひと頃から「大食い」のものが人気で、今も折りに触れ放映されています。「ギャル曽根」なる人物が、ぶっちぎりで強く、以来彼女は教養番組にも登場するほどになっています。また、「激辛」ものも登場して、「我慢食い」もテレビのコンテンツの一つになっています。
 そんなことを売りにしている店が当時もあったようなので、興味を惹かれた次第。

  十二ヶ月を喰って頂けたなら、お代も要りません。その上お景物もさしあげましよう、という看板で、一時は随分有名になった十二ヶ月である。元は新橋寄りに在ったが今は尾張町の交差点から三原橋へ向かって始めての横丁を左に曲がるとすぐ左側にある。


  十二ヶ月を四人で順繰りに受け持つことになる。
  S 一月「わかな」
  久夫 二月「梅」
  H 三月「さくら」
  M 四月「」うの花
  S 五月「さつき」
  久夫 六月「」みな月
  H 七月「天の川」
  M 八月「名月」
  四月頃までは甘餡の梅の色、櫻の色と薄色つきの汁粉。五月はぜんざい、六月はくず、七月はしょうが入りのおぞうにふうに、八月は月見だんご。
  九月「翁草」
  十月「小春」

  十一月「かぐら」
  十二月「とび雪」というのは、ぼた餅雪を想わせるような三つの丸い餅の上へ白砂糖がふりかけてあって、それへごまが点々としている。


食堂のような大店と違って、小店へは、現在のような地図を掲載する手もないであろう時代、道順をきちんと教えています。それぞれどんな内容かはわからず残念ですが、趣向を凝らした、ただの大食いとは違った一品へのこだわりが感じられます。ギャル曽根は完食できるでしょうか。
 当サイトのプロフィールにあるように、私は「あんこモノ」が好物、ついでに紹介すると、我が家の正月の雑煮は「二膳雑煮」といって、三つ葉に鶏肉、すまし汁の雑煮とつぶあんの汁粉が出てきます。ユフィの母の、岩手の実家での習わし、という。
本誌では、テーマは汁粉、ところで善哉と違うところを別紙で覗いてみます。織田作之助「夫婦善哉」(文学はおいしい 前出)。つぶしあんの汁粉に餅を入れたものを関西では善哉餅、略して善哉という。関東の善哉は餅の上にあんを載せたもので汁はない。「善哉」は仏教用語で「よきかな」の意味。最初に食べた一休膳師がおいしさに「善哉」と言ったとの説。
 

東海道線駅ずし合評
 流通の時代、宅配は、全国津津浦浦。
 宅配の歴史の中で、こんな『事件』がありました。生きた金魚を宅急便で運ぶ、というものでした。
 2007年、PHP研究所発行の『社会科 はこばれてくるしくみシリーズ 金魚も運ぶ宅急便』は小学校図書館用シリーズの一巻、私はこの巻の編集に携わっていて、熊本県玉名市の長洲町という金魚の養殖の盛んな町から、岡山県倉敷市に住む小学生からの依頼で、金魚を生きたまま届けるという一部始終を取材しました。
 金魚やさんのおじさんが、養殖の池から元気な金魚数匹を厚手のビニールへ、池の水をそのまま、袋いっぱいになるまで酸素を注入、ゴムで固く締め、宅配のお兄さんに“積み込みは常に一番上に”という注意を与えて、あとはひたすら、車を追いかけ、翌日、子供の元へ、というものでした。(ヤマト運輸 金魚の宅配 で検索可)
 宅配も質の時代に、そして新鮮さを競い、コロナ渦で乗客の少なくなった新幹線での首都圏への輸送もニュースになっています。

 ところで、新鮮食品を運ぶことでは、すでに1900年代に『かつぎ屋』と呼ばれた野菜の行商が行われていました。「失われていく仕事の図鑑 先述」では、主に千葉県内の農家の主婦が採れたての野菜、果実、鶏卵、赤飯、餅などを、カゴいっぱいに積み首都圏に、人により70~80キロを担いだと言われます。常磐線や成田線では専用の車両も運行していたといいます。
 高校まで1時間以上かかる通学、ラッシュにかかるのが嫌で、6時半の常磐線で通っていた時代、おばさんたちが朝食の弁当を分けながら食べ、次々降りていったのを見ていました。
 こんな流通が望むべくもなかった時代の、食べ歩き中年組はこんなことを考え実行しました。

 帰郷していたSが帰郷の途次、駅駅で集めて来た四種、試食して批評しようと、集まる。すし折はね横浜、沼津、静岡、に国府津の鯵のすし。
 包装は
 横浜(崎陽軒)は赤と青の二色、日の丸の国旗が大きく出て、国旗の宣伝文。 
 沼津(桃中軒)ひとよずしと命うって、褐色とあおの二色を程よくあしらってい。
 静岡(東海軒)桃色の一色で富士山に千鳥ねいささか安っぽいが、名所案内がついているのは気がきいている。
 国府津(東華軒)は水色と赤の二色「鉄道は誠意ある忠告を歓迎します。」空折、空びんの注意書き。
 値段は国府津の二十五銭のほか、二十銭。駅売りの時間のスタンプが何れもはっきり押されているのがうれしい。
 内容は
 横浜 海苔巻四、いか一、玉子一、かんぴょう入り玉子巻一、しょうが三切れ。
 沼津 海苔巻四、玉子一、鯵一、でんぶ一、玉子巻一、海苔太巻一、しょうが一切れ
 静岡 鯵二、海苔巻二、でんぶ、玉子、かんぴょう入玉子焼き、しょうが一切。
 国府津 鯵すし七つ、しそまき一。
 という内容でいずれも大同小異。
 大体に値段の割に安いのは事実、清潔さと、相当にきわ配っているのはね嬉しい。一寸した旅の折々こうした駅のすしとか、名物を家へ土産にして食卓で家族揃って批評したり、玩味したりするのも亦旅の副産物として一興てあろう。



味の批評は長くなるので割愛しましたが、メニュー眺めて想像するのも一興かと思った次第です。


柴又くさ餅
 この本の目次を眺めていくと、今でも店を構えているものが、幾つか拾えます。ああ、この当時から在ったのか、という感慨と、そういえば、店には「創業何年」となる、但し書きを掲げたものを見ることが在りました。デパート、劇場の食堂以外のもので、私が実際に暖簾をくぐった店もあって、いくつか並べた次第です。

 銀座資生堂 
 銀座不二家 
 根岸笹乃雪  豆腐七種を食したが、存外どれも甘口で、締めに冷奴を食べたくなった記憶があります。
 米久(本店) 



浅草 米久のついでに立ち寄ったか、すしや横丁のスケッチが描かれていました

 駒形どぜう 
本店へ行ったのは一回、支店が渋谷センター街の外れに出来て、こちらによくお世話になった。
 向島さくら餅 
長命寺桜餅のこと、本誌にも書かれますが、すぐ近くに言問団子があります。
 神田の藪
 亀戸のくず餅 
この当時は、鳥居をくぐってから店を見つけていますが、現在は通りに面した「船橋屋」が老舗のよう。藤の季節が賑わいます。

 柴又くさ餅 
  押上で車を棄てて京成電車に、駅前が工事で難義をする。駅を降りて帝釈橋を渡る。両側は掛茶屋で「いらっしゃい 〃」の黄色い呼び声。
  まず参詣を済ましてから。一行山門をくぐって御堂へ、Hが一線也のお賽銭を山門右手に鎮座ましますお猿さんのお手に捧げまいらしたのは特筆大書すべきである。
  角の掛茶屋で先ず名物草餅を食べる。Sがどうもここの草餅は色が悪いとこぼす。年増の女中さん“ご冗談でしょう。よその店の草餅は色つけであんなに緑いんでさ。” 江戸川べりの桜でも観て帰ろうかと、帝釈天の裏手道伝いに江戸川堤上に漫歩すれば、絢爛たる春色、桜花いまを盛と乱れ咲いて、対岸国府台の丘陵一幅の絵のように霞に包まれていた。  


故郷、柴又には中学の友人が何人も住んでいて、江戸川堤から続く遊び場でした。連中が草餅を堪能したのは、映画「寅さん」でスタッフ達の休憩所にもなっていた「高木屋老舗」だと想われます。当時のお客に、本誌のように“うちの餅は、江戸川堤のヨモギを摘んで練り込んだものだから、色気は悪いけれど、香りと味はいちばんなの”と話しているのをよく耳にしたものです。
 当時の江戸川の桜並木は道路の両側に、枯木と言える桜が、常磐線の鉄橋の辺りまで伸びている見事なものでした。茶屋もずらりと並んだ賑やかな花見の名所でした。河原へ降りれば「矢切の渡し」十数分で国府台、ここまで遠征して遊んだものです。


●余聞
1月1日 子供へ年玉 信一 5.00 
              寛  3.00
              昭雄 2.00
              和雄 1.50
              絢子 1.00


 これは昭和17年の、父の日記帳、巻末の 金銭出納帳の書き出しに書いてあるもの。父は、私に似合わず筆まめで、もっと似合わず、素晴らしい達筆だったことが見て取れます。
 食べ歩き中年組の、プライベートな私生活の一遍が書かれていなかったのが心残りになっていたところ、古い書籍に混じってこの日記帳が見つかりました。本誌に書かれているより10数年経過していますが、当時、五人の子供を育てていた中年男の懐具合が分かるかと思い、誠に私事ではありますが、ご紹介する次第です。
 私は、まだ生まれていません、出納帳には
 3月27日 信一入学金 103.00
        帽子      9.57
        信一と昼食  1.00
        有楽町ーー田町 二人 .40
 とあります。長兄が慶應義塾大学に入学して、学校まで学費を収めに行った様子が書かれています。

 想わぬものを見つけました。
 5月18日 シンスケ 1.40
 湯島天神下、切通しへ上がる左角にある居酒屋です。現代では、ひと頃、イチゲンお断り、というハナタカ店になってもいたようですが、私が坂上の婦人生活社に勤務していた頃に時々「浅酌」に通っていた店、父も上がっていたか、と感慨で観ていました。シンスケは天神下の叔父の家(当時でも珍しい木造三階建の家で、シンスケから6軒隣りにありました。横山大観の指物師だった祖父・三好金三郎の木彫りの大看板が二回の出窓の下に賭けられていました)。弟の家に寄ったときに時々入り込んでいたようです。それにしても、一円四十銭は5千円ばかり払っていたことになります。五人の子持ちの浅酌にしては太っ腹です。
 この月、自宅へ80円手渡ししています。当然、タバコ代、浅酌料は手元に「かなり」残していたと疑っています。

 もう少しお付き合いを。
 私はこの年の2月19日に生まれています。日記のこの日と前日の記述。略しますが、18日は11時45分から、戦勝祝賀を会議室で全員で挙行。3時には会社退出。上野広小路のビヤホールへ、弟の家に寄って白米二升譲り受け、6時ころ弟と友人伴って浅草のカフェーへ、シャンパン4本打ち抜く。帰宅、終電なしで徒歩、乗り換えの千住で愛用の赤鞄紛失。(タクシーもビジネスホテルもない時代、家まで3時間はかかったと思われます。)
 翌19日。千住で東武線駅で紛失鞄聞くも、無し。(この日もマメにあちこち、この日も米、醤油など受ける。)十時四十分第五男出産(安産)双方共元気。


 父は水産会社に勤めていたようで、鮮魚をサカナに酒や米などを親類から譲られた様子、戦時中で妻と5人の子供、祖父母二人の大家族で、食べるのは結構苦労していた様子。ただ、結構気ままにアフター5はしっかりやっていたようです。明日にもこの世に顔を出しそうな私にはお構い無しで、まあ、いいか。
因みに、18日の出納帳には金額の記載無し。


父の膝上の私、3人の兄と姉、台紙付き、スタジオ・田高 とあるので、写真館に撮らせたものらしい、長兄は不在 昭和17年。

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