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現在死語辞典 (かきくけこ)

 かってぐち 勝手口=台所の出入り口

 昔の日本家屋、例えば、私が住んでいた葛飾区の実家は、玄関とは別に勝手口があり、家族、ご近所さん、御用聞きなどが出入りしていました。玄関は通常は鍵が掛けられていて、客人も、いちおう勝手口に顔を出し“それじゃ玄関の方へ”と言って案内すると塩梅に作られていました。
 北側、道路沿いの板戸になっている門を開けて、南に5~6メートルのところに、板囲いの小屋があり、コンクリートの床、北側に竃、東側に流し、南側に井戸があります。私が生まれたときには、既に築30年を超えていて、当時、町内では6番目の建築と言われた家、水道設備はまだなく、どの家も井戸を使っていたようです。我が家の井戸はかなり深く掘られていたそうで、夏は冷たい水が出て、野菜などは桶に汲んだ水に浮かべていました。

 この外の台所から、母屋の1畳ほどの板の間があり、ここで下足を脱いで家に上がります。上がりがまちが言わば居間、一時は祖父母含め10人が食事をしていたものでした。

 勝手口を説明したので、玄関も。門から西へ、垣根に沿って石畳、左に格子にガラスの両開きの玄関扉。2畳ほどの三和土があって、40センチほどの幅の板敷きの上がりがまち、ここの板は上に開いて上げられるようになっていて、中には普段使わない父の靴や履物などが収容できるようになっていました。ここを上がると畳の3畳間、襖の向こうが8畳間。
 昔の棟梁はこんなことまで設計していました。葬儀があったとき、8畳が祭壇と近親者、3畳間に家族、親類。玄関三和土に焼香台、誠に、葬儀用に変えられる間取りになっていました。
 私が結婚して家を出るまでに、病死した次兄、祖父、祖母、母、父と三度の葬儀が行われました。

余聞
19歳年上の長兄は時々実家に帰ってくる時がありましたが、ある時、駅を降りたら見知らぬ男性から、いきなり挨拶されたそうです。どなたか、と聞いたら、葬儀屋の親父だったそうです。“この街で挨拶されるのは葬儀屋くらいになっちゃった”と苦笑していたのを思い出しました。

 勝手口は、所謂「向こう三軒両隣」のコミュニケーショうの場として貴重なものでした。現在、〇〇ホーム、〇〇レジデンスなどの快適そうな家屋が住宅の中心ですが、ついぞ勝手口あり、の広告にはお目にかかっていません。富裕層が所持する、億単位の豪邸にも、おそらく勝手口は存在しそうもありません。勝手口のある家は、本当の御大臣の家なのですが。

上 台所に通じる勝手口の木戸があった。下玄関に通じる門
私の長兄夫婦が住んでいた家屋、現在は息子夫婦が住んでいる。築100年を数える木造平屋の家。令和3年11月撮影
 武蔵野市吉祥寺




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   かつぎや 担ぎ屋 

  験を担ぐ(縁起を担ぐ)といった意味の記述はネットにもありますが、物を担ぐといった意味としては辞典類には見当たりません。これは主として1960年代頃のこと、千葉周辺の農家の主婦たちが、野菜、鶏卵、餅、など、採れ立ての生鮮食を篭に何段も重ねて担ぎ上げ、当時成田線、京成線、常磐線などに乗って、都心へ繰り出し街角で販売したり、お得意の家に「御用聞き」(後述の項目参照)を行た行商の人たちを、町の人達は「かつぎ屋さん」と呼んでいました。夏の採れたてのトウモロコシ、赤飯などが特に悦ばれていました。京成線では専用の車両を運行するほどの人たちで一杯だったこともありました。

 当時、江戸川区にある都立高校に通っていた私は、ラッシュの電車に乗るのが嫌で、6時過ぎの電車で登校。電車の後部車両には、このおばさんたちが乗り込んでいて、朝ごはんの弁当をにぎやかに食べていました。三々五々、駅ごとに降りていきました。



 きんぷら  てんぷらに非ず、また、銀ブラにも非ず
   金麩羅=天麩羅の一種。うどん粉の代わりにそば粉を衣として揚げたもの。   また、卵黄を加えた衣で揚げたもの。また、榧の実油で揚げたもの。
   この項 広辞苑

 『キンプラ テンプラ フライデー』 という語呂合わせの言葉がありました。週末のご馳走に揚げ物でも食べよう、という庶民の楽しみの一つだったようです。

 この言葉、ネットで調べても、広辞苑で紹介したより詳しいことは掲載されていません。ということは、現在では一般メニューとしては認知されていないようなのです。なんとか、周辺調べしてみようと当たってみました。昭和初期には一般の食堂やそば店で供されていたようで、昭和4年の刊行された『東京名物 食べある記』事時新報社の復刻版を読んでみました。新聞社の男性数名が、都内の店を食べ歩いて新聞に掲載したものです。「銀ブラ」の項に出てきます。

 「丸の内錦水」
 『金ぷらご飯1円』味はなかなかいいが一円はちと高いな。(今で言う天ぷら定食といったところでしょうか、一円はだいたい三千円見当のようです)
 「米国式支那料理を標榜するアスター」
 化粧品のポンピアンの奥の喫茶部、の並びにある金麩羅の大新は洒落た構えで美味い金麩羅が食べられる。
 「劇場食べもの案内 三芳食堂」には、金ぷら幕の内の紹介が出てきます。

 さて、この天麩羅の語源については『文学はおいしい』 作品社 から引いてみます。
天ぷらの語源は多数あるが、スペイン語の「テンプロ」(寺)という説。寺との関係が深い料理だからだ。「天麩羅」の表記は江戸後期の戯作者・山東京伝の考案。天は揚げること。麸は小麦粉。羅は薄衣のこと、最初は「天麩羅阿希」と記していたようだ。つまり「油揚げ」との命名らしい。
 以上 中里 恒子 『時雨の記』の項より。

 きんぷら、が生き残らなかったわけ、について、どこかに記述があれはそれに従いますが、私なりに、こじつけて考えてみました。まず、そば粉を衣にしたこと、これは想像してもあまり美味そうとは言えません。次、卵黄を加えたもの、これは現在でもこうした衣で揚げている天麩羅もありようなので、わざわざ、キンプラメニューとする必要がなくなてきた、と言えるのかもしれません。榧の実の油、どんな油なのかは、私にはわかりませんが、天ぷら油も進化してきているのでしょう、何もそこまで凝らなくても良かったのかもしれません。

 しかし、こうした日本食があった時代を楽しむために、改めて、キンプラを復活させてはどうでしょう。
 キンプラ食べよう 今日はブラックフライデー
なんて。

 もう一つおまけの時事ネタ
 コンプラって、どんな食いもん 
 令和3年12月 日本大学理事長田中英寿が、脱税の容疑で逮捕されましたが、任意の聴取の際に放った言葉、だという。コンプライアンス違反、と言われての反論だったといいますが。



 くすりうり 薬売り 薬局にあらず
 
 
♫ わたしゃ雪国 薬売り
    あの山超えて 村超えて
    惚れちゃいけない 他国もの
    一年経たなきゃ会えやせぬ
    目の毒 気の毒 ふぐの毒
    ああ 毒消しゃいらんかね 毒消しゃいらんかね
 
 毒消しゃいらんかね 1953年 三木鶏郎 作詞作曲 歌 宮城まり子

 歌は世相を表す、と言いますが、これほど見事にその時代と業態を写したものはなかったように思います。ラジオでは楠トシエが歌って、こっちで覚えた人も多かったのでは。富山の駅前には、薬箱を背負った親子の像が立っています。富山と薬売りは切っても切り離されません。
 現在でも富山の薬は様々、ネットや通信販売でよく見かけます。薬の「訪問販売」は江戸時代に遡ります。こうした業者は当時の藩をまたいで、全国に移動した、と言いますから、それなりの特権を待っていたのでしょう。一節ではスパイ、の一団か、ともいわれたようです。

 この「置き薬制度」は現在も健在で、あの元気印の松岡修造もコマーシャルしているので、ご存じの方も多いでしょう。私の家にも、世田谷時代は年に一回くらいか、薬箱の点検に来て、風邪薬や湿布のものなど、たいした金額にならないものの、よく通ってくる方がいました。
 越中富山の反魂丹(えっちゅうとやまのはんこんたん) 富山の薬を代表する、というか、一つの象徴として言われている言葉です。市内には、池田屋安兵絵商店という創業家が店を構えています。文久年間の創業といいます。
 この「反魂」とは死んだ人の魂を呼び戻す、また蘇生させるという意味があるようで、まあ、健康の万能薬というところで名付けられたのでしょうか。一方「越中富山の反魂丹 はなくそまるめて 万金丹」なんていう揶揄するような言葉も、よく言われたものです。

「薬九層倍」なんていう言葉もあります。薬の値が原価に比べて非常に高いことを言うのですが、一方暴利を得ることようにも使われます。まあ、薬の効き目は本人次第、なのかもしれませんが。


左 薬売りのシンボルになっている絵、富山の薬の新聞広告より。右 富山の土人形は名産品の一つ。





け けんけん 片足跳び
 
この言葉は私の辞書と広辞苑には記載がありませんでした。ネットで検索したら、広辞苑で片足跳び、という意味にある、としていまました。
 同じく記載を進めたら、山口県の方言と、近畿、中国、四国で使われていたもので、東京周辺でも言われるようになったといいます。私の子供時代は、ふつうに「けんけんする」と使われていました。

 私の子供時代、女の子は「けんけん遊び」をしていました。路上に蝋石で、スタート地点から、輪を書き、その先に2つ並べた輪を、更に一つ、更に2つと輪を並べていき、折返しは、くるりと同じ輪に戻らなければいけません。この輪を一つは「けん」二つは両足広げて「ぱ」と言うように、けん、ぱ、けん、ぱ、けんけんぱ、というように飛んでいくのです。慣れてくると、輪の間を広くしたり、輪を小さくしたりと、難度を上げていくのです。楽しそうだな、と見ていましたが、こんな遊びで女の子は体幹を鍛えていたのかもしれません。
 今から考えると、この遊び『路上のボルタリング』と言えるのではないかと、思っている次第。校庭で、道具もいらず、誰でもできる素晴らしい運動ではないか、と薦める次第です。

 私は子供時代「竹馬(たけうま)」が得意でした。祖父が子供にしては高い40センチほどの竹馬を、太い竹竿を切って作ってくれました。節の都合で高くなったようなのですが、馬に乗るときは縁側から、そして降りるのも縁側へ、というふうに。時々、右の竹を肩に担いで左足で2~3歩けんけん「兵隊さん」という技でした。
 サーヤが小学生の頃、先生との面談に学校に行ったとき、廊下に竹馬があったので、ヒョイと乗って歩いたら、先生がびっくりした、というのを思い出しました。

 柔道に「けんけん内股」という言葉があるそうです。技を掛けるとき、たいていは左足で何歩かけんけんして、仕留める、そういえば何回か見たことがありますね。



 ごようきき 御用聞き 元祖訪問販売
   注 得意先などの注文を聞いてまわること。その店員。

 ♫ かわいいかわいい 魚屋さん
   ままごと遊びの魚屋さん
   こんちわお魚いかがでしょ
   お部屋じゃ 子供のお母さん
   きょうはまだまだ いりません
 かわいい魚屋さん 2017年 加藤省吾作詞 山口保治作曲

 この歌、別のタイトルを付けるとすれば『小さなごよう聞き』とでもなるのでしょう。日頃やってくる魚のごよう聞きの男と、家で応対している母親とのやり取りを、ままごと遊びになぞらえているのです。二番の歌詞に“てんびんかついで どっこいしょ”とありますので、この時代、いわゆる「棒売り」(天秤棒の端に、商品を入れた籠を下げて売り歩く)で御用聞きにに歩いていたのでしょう。
 この歌、一番では“要らない”と断るのですが、二番ではお隣のお宅に回ったようで、この家のお母さんは“今日はそうねえ、よかったわ”とソフトなお断りになります。家の習わしもいろいろだったようです。

 私の実家の時代でも、御用聞きは週に何度か来ていました。リヤカーを引いた魚屋でした。父は水産会社に勤務していたので、戦時中も魚は晩酌に欠かさなかったようです。父は、長い先の尖った象牙の箸で、細かいところまで突いて食べていました。煮魚は食べた後、お湯を注いでスープにしていたので、猫は飼っていませんでしたが、猫も跨いで素通りする、いわゆる「猫又」状態でした。

余聞
令和3年暮れのあるテレビで、御用聞きのテーマが放映。女性アナウンサーがサーヤと同じ質問“時代劇で御用、という場面が出てきます、あれは同じ意味なの”その場の答えは“意味は同じですが、御用を聞きに行くのではなく、お上から申し渡された御用を果たすために取り締まりに行くわけ”。従ってこの場面、“今日はそうねえ、よかったわ”と断るわけには行きません。また、かわいい魚屋さんが御用提灯をぶら下げて歩くわけにもいかないのです。
 現在は過疎地などで買い物に行けない人たちのために、移動販売車が使われていますが、これも御用聞きの一種。オフィス街に登場するキッチンカーも、その一種でしょうか。

豊洲周辺で。ディスタンスを取った御用聞きの一つ。

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