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現在刻語事典

其の八 外国人労働者

外国人労働者の受け入れを増やすという、政府の方針が示されました。来るべきオリンピックの向けての建設業の担い手、東北復興への労働力、老齢化社会への介護者の必要性など、さまざまな問題の解決への人材確保が目的です。これには、移民という問題もからんで、欧米の移民人口の拡大から、トラブル増加という事態も見据えて、慎重意見も多いといいます。
 まあ、今でも外国人の日本での就業はかなり目につきますが、これは飲食店やサービス業でのことで、「外国人労働者」とはちょっと違いますが、ずいぶんいろいろな職場でも「ガイジン」の働く姿を見るようにはなりました。私も、改めて振り返るとずいぶん身近でガイジンと接してきました。そこで、いままで「おつきあい」したガイジンさんをここで紹介してみたいと思います。

中国人のみなさん
 働き者のRYUちゃん
 我が職場(病院清掃)にもガイジンは進出しています。私は、ここで数年働いていますが、結構会社が入れ替わります。予算の問題、トラブルなどあるようですが。私の持ち場はちよっと特殊な環境のところで、会社が変わってもそのまま仕事を続けて欲しい、というありがたい選択で(時給は変わらないけど)今も仕事を続けています。
 一昨年、一年だけで撤退してしまった会社に居たのがRYUさん。髪の長い少し美形の中国人。7時~10時までのパート。彼女は細かいところまで気が付く人、私の持ち場に近いところで仕事をしているので、よく観察することがあります。
 いつもは、看護助手さんがやるような、待合の椅子から、壁にかかった額縁の上、廊下の窓の桟、エレベーターのプレートまで、毎日きちんと拭いています。お母さんが、毎日、部屋の掃除をしているような、丁寧な仕事ぶりです。
 RYUさんはこの後、1時から夕方まであるホテルで清掃の仕事、そしてその後は、麻布にあるお寿司屋さんで、洗い物の仕事をしているそうです。“ジャックさん、オスシタベニキテクダサイ”と言われていましたが、果たせず。彼女子持ちですが、一日中働いていることに成ります。なんでも、近郊にマンションを持っているそうです。働く人は、報われるのです。テキトーに掃除しているおばさんや、じいさんには、爪の垢でも飲ませたいような働き者です。

 父子で働くOさん
 Oさん父子は定期清掃班で仕事をしていました。定期班はだいたい月一回、所定の場所をポリッシャーという機械を使って床掃除、ワックスをかける仕事です。3年くらい続けているようです。息子は無口ですが、普通に話は出来ます、がお父さんは全くだめで、いつもニコニコしていますが話は成り立ちません。
 原則として病院が休診のときにしか仕事になりません。毎日顔を合わせるわけではないのですが、昼休みは同じ控え室です。息子は売店で弁当を買ってきますが、お父さんは夏でも冬でも、カップラーメン一本やり。もともと汗をかきやすいタイプのようなのですが、夏に、食べる前から汗をにじませて、真っ赤な顔で麺をすすっているのを見ると、こちらまで汗が噴出しそうでまいりました。
 二人はアパート住まいですが、聞くところによると本国にマンションを持っているとか。

 名も知らぬ二人組
 RYUさんやOさん父子のような働き者ばかりだと、現場も助かるのですが、こんな人ばかりではありません。所属会社の本社ビルの夜間清掃(終業後のオフィスのゴミ集めとバキュームかけ)を6時~8時までを臨時で手伝って欲しいといわれて三ヶ月だけ応援に行ったことがあります。
 中国人の二人組みが、急に来なくなってしまったので応援が必要になったとのことでした。所長に話を聞くと、一人で1フロアやるのに、通常だと40分かかるのだけれど、彼らは20分そこそこで仕上げてくるのだとか。気になって点検に行くのだけれど、目立ってゴミが残っていることも無い。毎日後を付いていく事もできないし、そのまま続けてもらっていたのだそうですが、とにかくそんなに早くできるわけが無い。と、ある日、いい正したら、翌日から来なくなった。
 という次第。まあ、中国人に限らず、我が同胞でも、初めて来た日の昼でやめてしまう輩も珍しくない業界なので、またか、という次第。ちなみに、私、40分で仕上げるのには、かなりのスピードが必要であったこと、申し上げておきます。

 上海セレブになったYOOさん夫妻
上海から東京にやっきたYOOさん夫妻。奥さんの妹さんが一緒に日本に来ていて、その友達が私の仕事仲間、ということからお付き合いが始まりました。YOOさん夫妻はもう10年ほど前に上海に帰国しました。それまでの5年間、小学生の娘さんをお母さんにあずけて夫妻で日本に。日本語学校に通いながら、旦那さんは電気工事の会社の現場で、奥さんは飲食店で働いていました。当時から、いやその前から旦那さんは上海の株式投資をするビジネスマンでもありました。
 巣鴨にある夫妻の下宿に、仲間たちが集まって作る中華料理を食べにユフィ共々、度々訪れ、また私の家にも100個以上の手作り餃子を土産に、ユフィの日本料理を楽しみに遊びに来てくれました。
 帰国する前は記念にと、旦那さんには私のタキシードを(ちょっときつかったけれど)、奥さんにはユフィの訪問着を着せてあげて(ちょっと長かったけれど)、仕事仲間の四谷のカメラスタジオで記念写真を撮って上げたりしたものでした。(この写真はその後上海の彼のマンションへ立ち寄った時、応接間の壁に大きく飾られていました)

 帰国して一年ほど、上海で落ち着いたので是非遊びに来て、とYOOさんから電話。早速三人で出かけることに。ただYOOさんから“是非、便座シートを一式持ってきてくれないか”と言います。私、TOTOのショールームへ行って一式購入。なんと成田まで段ボール抱えて持参、ヒコーキに乗っけて上海まで運びました。
 彼は日本にいるときから、帰国後はこれを商売にする腹づもりだったのでしょう。その後もう一式を友人から持参してもらい、大連の工場で2年ほどかけて商品化。『BP』(原名はちゅうごくご)の便座シートを開発、上海での販売権を得て大成功しました。彼が後で話してくれたところでは、ここに組み込まれている小型のモーターがどうしても中国で手に入らず、予定以上に開発に時間がかかった、と言っていました。

 彼のマンションはゲートのある、守衛が出入りをチェックするようなところ。中国人は自宅で料理することは稀で、外食が中心と言いますが、朝と夕、料理作りのおばさんがやってきていろいろ作っていました。また、私たちが遊びに行った時、路地にある屋台の店での食事を頼んだのですが“ああいうところは不衛生でだめ”といいます。日本での食生活は夫妻の生活に少なからず変化を与えていたようです。


ミャンマーのみなさん
 居酒屋で活躍していた三人のミャンマー人
 渋谷の道玄坂に仕事場を持っていたときのこと。同じ町内会で偶然出入りしていた居酒屋のママさんが、中学の同級だったことが分かって、ごひいきに。ご主人と料理人の三人で切り盛りしていた店は繁盛して、恵比寿に進出。渋谷の5倍はあろうかという店内。私は、愛知県の常滑から大きな招き猫の置物をプレゼントしたりしました。そこで働いていたのかミャンマーからの三人。ママさんによれば“ジャックさん、中国人はだめだ。二人雇ったけれど、遅刻はするし、勝手に休むし、気のいいお父さんもあきれて首に、求人の相談に中国人はだめ、と言って紹介されたのがミャンマーからの留学生少女のような小柄な女性と少し太めの男性。日本語も接客には充分。かなり教育にはきつめのママさんの気にいっていたよう。もうひとりの30代の女性は、旦那さんがお医者さん、オーストラリアで仕事中、旦那さんのところに行く前に、知人の件の女性に誘われてこの店に。この人、料理が得意で、この店の売り物メニューになった『ビルマラーメン』(オノカウソエ)や、鶏肉のカレーに込みの『チャッターヘン』を生み出しました。(現ミャンマーは1989年までビルマの呼称でした)

ビルマラーメンの看板がある恵比寿の店


モンゴルのみなさん
 ウランバートルで実業家のバトツェンゲルくん
 通称ツェンゲル君は、中央大学の経済学部出身の英才。卒業後はホームページ作りの会社でアルバイト。この会社の社長が私の昔からの仕事仲間、ということで知り合いました。最初のモンゴル旅行はツェンゲル君の案内で行っています。

 帰国して彼が始めたのが、日本で言う、いわゆる『質屋』。どちらかというと、金融業に近いものです。それまでこうした業態はモンゴルにはほとんど無かったようで、前記、上海のYOOさんと同じように、日本にいるときから、こうした仕事を目指していたようです。ウランバートルでは主として質草は貴金属。こちらの人は貴金属・アクセサリーへの執着心があまりないようで、比較的気軽に手放すようなのです。市内に数件の店舗を構えるほどになるのにそれほど時間はかからなかったようです。ただ、店員の他に警備員を置く人件費と、人を選ぶのに苦心がある、と言っていました。
 彼は同時に旅行会社も立ち上げ、時として日本にビジネスで訪れ、少しずつ増え始めたモンゴルへの旅行者のためのチャーター便による旅行も手がけています。

 そしてまた、これもかねてからの希望だったレストランの開店にもこぎつけました。市内には日本人が満足するようなレストランがないので、日本人の板前さんを使って始めたい。“ジャックさん、モンゴルで仕事してくれる板前さん探してくれませんか”と頼まれましたが、さすがにこれは私の手には余ることで、実現しませんでしたが、モンゴルの若者を大阪へ一年派遣して料理を覚えさせたようです。(なぜ大阪だったのかは分かりません)

 日本にやってくる外国人には、いわゆる出稼ぎ的にやってくる人ももちろん、こうしてビジネスモデルを求めてやってきて成功を収める人も数いるのですね。

『客間』でおなじみマラルゴーさん
 当サイトの客間でおなじみのマ―ラさん。日本で9年間生活しました。最後の数年はユフィの料理の仕事のアシスタントをしていました。あと1年続けていれば永住権を取れたのですが、お父さんが心筋梗塞で急死。モンゴルに帰国しました。
 彼女は日本語を話すのは全く不自然さがありません。よくモンゴル人の力士のテレビインタビューを見ることがありますが、総じて妙なアクセントが無くて、流暢に話します。何か日本語に通じる要素があるのでしょうか。そのワリには、モンゴルの人たちの名前が複雑というか、日本的な音を踏むことが無くて覚えにくいのですが。

 そして、彼女の日本語で書くことのすばらしさ。客間に投稿してくれる文章は全て原文のままです。多少、アレ、というときもありますが、日本人でもなかなか書けないような文章をものにしています。
 改めて、「モンゴル通信」読んでください。

 この他、道玄坂時代から通っている焼肉店のママさんは、今でも渋谷を歩いていると大きな声で呼びかけてくれますし、中華を食べたくなったら必ず出かける大久保の香港料理店のみなさんなど、親しくしてもらっている人たちはトモダチともいえる人たちです。
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