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絵日記 昔 むかし

 どこかで、何度か書いていますが、私勉強が大嫌い。特に、苦手とやる気の無さで、数学は全くダメ。高校の数学は、3年通して、最高点が37点。よく卒業出来たよな。これに続いてダメだったのが、図画・工作。当サイト、リビング ペット 「01 手作りねこ扉 ベニヤ二枚切り(3記事連載)」での奮闘ぶりでお分かりのとうり。特に中学の成績は最低クラスで、高校受験のとき、担任の教師は内申書作るのにえらく苦労したそうです。
 成績が上がらないのは、要するにやる気が無いのは自分でも分かっているのですが、どうも担当教師との相性というか、好き嫌い、というか、嫌い嫌いで気に入らない教師は徹底的に勉強しなかったんだよね。中学の美術担当は女性、何が気に入らなかったのか、自分でもよくわからない。

 ところで、我が家の引越し予定で、本箱や箪笥を整理していて、いろいろなものが出てきたのですが、小学校時代に、夏休みに作った絵日記が出てきました。よくこんなものとって置いたものだと、改めて見入っているのです。

絵日記 表紙
 これ、夏休みの宿題に作ったもので、休み明けの学校の展示会で金賞貰ったんだよね。表紙の左上にわずかに、金賞の札がちぎれた後があります。表紙の文字は父親の書、達筆でしょう、私、字は父親に似なかったんです。と言うと、母は“どうせ私は字がへたですよ”とよく言ってたものです。

 これ見ると、小学校の時は図画については、まんざらでもなかったようです。
 4年生というのは、ちよっとした変化のある年。多分この年からローマ字の学習が始まったのではないか、と思われます。また、音楽、図画工作などの特別学習が、専任教諭が担当始めたのではないかと記憶しています。図画工作の先生は、長妻という、小学生からすると、いわば、お婆ちゃん先生、おそらく50代の人だったのではなかったか。髪を後ろでひっつめにした、目の鋭い、ちょっと怖い先生でした。ところでこの先生、授業が始まってすぐに、私のところに来て“お前はいい手の形をしているなあ”と言ったのです。こういう一言って何か、いつまで経っても忘れないものです。
 そんなこともあって、一念発起、夏休みの宿題に取り組んだ、という事だったのでしょう、他人事みたいだけど。私、けっこう「木に登っちゃう」性格あったみたい。
 で、 むかし 、昔、の小学生の夏休みがどんなものだったのか、紐解いてみるのも面白いかと、一部紹介したいと思います。

絵日記1両国花火
7月21日(土) 
ヨル モノホシデ リョウゴクノ ハナビヲミマシタ トオクニミエル ハナビハ キレイデシタ
なんと、ジャックの葛飾の実家の西側のベランダから、両国の花火が見えたのです。実家は200坪弱の土地に、二階建ての家と、庭を挟んで、祖父母が暮らす平屋の家がありました。父親から聞いた話では、この家ができた時、地元には5軒の家があるだけだったといいます。
 縁側は1メートルも高さのある家で、二階も随分高かった。兄達は、二階のベランダから屋根へ、そこからまた梯子を掛けて、二階の屋根にまたがって花火を見ていた記憶があのます。

そろばん塾へ行く日記
8月1日(水)
キョウカラ ソロバンナノデ ボクハ ドキドキシナガラ イッタガ イチニチイクト ナンデモナカッタ
今のように塾全盛の時代とは違いますが、当時は算盤塾がけっこう人気があったようです。私が進んで行こう、という訳も無いので、多分、隣の「テッチャン」に誘われて、夏休みの間だけ通ったのだと思います。何に役立ったという訳でもないのですが、暗算が出来るようになったのが、若干のプラスだったでしょうか。母に算盤入れを作ってもらって通ったようです。

紙芝居の絵日記
8月4日(土)
キョウハ タイクツナノデ オヒルカラ スズシイトコロデ カミシバイヲ ミタ
今時のガキ共(いつも失礼、ご子息、ご令嬢様たち)はどんな夏休みを送っているのでしょう。テレビがまだまだの時代、夕方はラジオドラマに耳を澄ませ、江戸川へ釣りに行く以外の楽しみは「紙芝居」。絵によると「ロボチャン」とあります。内容は全く覚えていないのですが、まあ、ロボットが活躍するようなものだったのでしょう。紙芝居はだいたい、2本立てでした。おじさんが自転車に積んだ小さな駄菓子を買って、見ることになっていました。「所謂、買い食い」にうるさくて許さなかった母ですが、毎日の事でもなく、「ただ見」はご法度のこと、水飴だけは許してくれて、飴をなめながらの鑑賞でした。

絵日記 雷
8月11日(土)
ユーガタカラ モノスゴイ カミナリガ ナッテ コワカッタ
今時のガキ(また出ちゃった)は雷をどう思っているのか分かりませんが、とにかく、雷が怖かった。近くの金町浄水場が大工事の最中で、大きな広場になっていたせいか、落雷が頻繁だったように記憶しています。母は“クワバラクワバラ”って言ってれば、どこかえ行っちゃうよ、とよく言ってました。おまじないのつもりだったのでしょう。

絵日記 江戸川の釣り
8月16日(木)
アサハヤク オニイサント エドガワニ マタ ツリニイッタ マル モ オトモシタ ケレドアマリツレナカッタ
私の家から江戸川堤までは歩いて5分、そこから、いつもの釣り場(矢切の渡し場の少し上流になる)まで川伝いに歩いていきます。あまり釣れなかった、とありますが、多分潮目がよくなかったのでしょう。満潮時間、或いは干潮時間の前後2時間くらいの潮が動いている時が釣り時でした。良く釣れる、という時は、ハゼが20匹ほど、セイゴ(鱸の孫といえばいいのでしょうか、20センチほどの魚、もっと大きくなるとフッコ、30センチ超えるとスズキになりますが、この大きさだと海に出てしまうのでなかなか釣れません。もっと小さいのはコッパと言っていました)が1~2匹といったところです。

 こんな風に釣果が上がらない時は、帰りの暗闇に乗じて、近所の婆さまたちが勝手に河川敷に作っていた畑から、トウモロコシを一本、大根を一本、頂いてきました。兄は、もちろん、見てました。引き抜いた大根が、洗って食べたら、甘かった、というのが今でも忘れられません。

 日記の中 マル というのは家族で飼っていた、雑種の雌犬。かしこい犬で、兄達は、当時放し飼いが当たり前の中、また、犬を飼っている家も少ない中、会社帰りで、我が家に戻る角を曲がると、足音を聞きつけて、マルが飛んでくる、と可愛がっていました。

絵日記 プール
8月27日(月)
オヒルカラ イノカシラコウエンノ プールヲ ミニイッタ ミンナガ タノシソウニ オヨイデイタ
19歳年上の兄が、結婚して井の頭に住んでいました。(余計な事だけれど、実家が広いといえども、5人の弟と妹がいる家で、新婚家庭と言うわけにもいかなかったでしょう。母親と二人暮らしの家に終身居候として入りました。後々、私も、母親と二人暮らしのユフィと結婚して、居候生活が始まったのです。よく兄と“俺たちは夫婦喧嘩できないよな、出て行けって言えずに、出て行くぞって言わなきゃなんない”と冗談飛ばしてたものです)。閑話休題

 当時井の頭公園には、弁財天に行く橋の入り口にあたる辺りにプールがありました。幼児用の水遊び用と大人用。このプールは大人でも足が着かないほどで、子供はプールの縁に沿って遊んでいました。日記を見ると、この日は見に行っただけのようです。兄の家からは数分の距離で、家で海水パンツにはきかえて出かけたものです。
 因みに、この兄が住んでいた、いや、居候していた家は200坪もある土地に今では記念物的存在の、昔からの木造平屋の家として残っています。

絵日記 西部劇
8月31日(金)
オヒルカラ テツヤチャント カーボーイゴッコヲシタ テツヤチャンハ カーボーイデ ボクハ インデアンニナッタ
テツヤというのは、庭続きの隣に住んでいる、1年年上の男。結構乱暴ものだったけれと、よく遊びました。我が家には3本の大きな椎の木があって、葉が茂ると上が見えないくらい、友達とよくかくれんぼしたぐらい。どうして私がインディアンになったか定かではないのですが、こうした「扮装」が好きだったようです。
 中学では運動会の仮装大会で、当時のガキ大将だった帝釈天の仏具屋のせがれと、全身青い絵の具を塗りたくって、河童に扮装。当時のこと覚えている同級生数人が同じ高校へ進んだ事もあって、当時のあだなは「カッパ」。今でも飲み友達の小岩在住のSは、今でも会うと、私のことを「カッパちゃん」と呼んでいます。
 立派な弓を持っていますが、これは家の物置にあった剣道の竹刀で作ったもの。



 絵日記と一緒に出てきたのが、6年生の時に書いた絵です。合わせてご紹介しておきましょう。
使用学校時代の写生
写生画の裏の評価
飲ん兵衛揃いの私の家には、当時では珍しい、多分、ウイスキーの角瓶があり、ツマミの缶詰と一緒に写生したものと思われます。張出成績品、と判子が押されているので、どこかに張り出されたのかもしれません。先生も、小学生がウイスキーを描くとは思わなかったのかもしれません。

駅の写生
駅の絵の裏に評価
これは、京成電鉄金町線の金町駅。現在でも都区内では珍しい単線の駅。隣の駅が柴又、ここから先は通常の複線、一駅区間だけが現在も単線で残っています。この駅も、駅舎は新しくなっていますが、高いビルに出来るスペースも無く、ほぼ昔どうりの佇まいで残っています。
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