やましたさんちの玉手箱
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代々お下がりで受け継いだ絣の着物

サーヤは女の子でもよく似合います



ジャックの家系は、義姉が一人女で、残り五人が全て男子。
女の子誕生で、義父が大層喜んで特別に可愛がった、と聞いている。
ジャックは末っ子なので、長男から次々に着るものはお下がりばかりだった様子。

金町の小学校時代は、半ズボンの洋服姿で、ものすごく目立ったし浮いていたらしい。
ジャックの時代以前には、割と裕福な家庭だったらしいのだ。
「俺だけが貧乏クジを引いた」と言っていたから…。

その裕福な時代のまま、長男から始まる男の子たちは、洋服も着物もお下がりが続いていくのだが、義姉はたった一人の女の子で、ずいぶん贅沢をさせてもらったみたい。
義姉を飛び越しての末っ子・ジャックには、お下がりで充分な時代であったのだろう。

サーヤが誕生してしばらく後、ジャック以後の甥たちにそのお下がりは受け継がれ、延々と続いていたようで、「男物だけれど着せる?」と届けられた。
茶系統の絣の袷と羽織の一揃いと、単の紺絣の着物。

大柄で可愛いので、赤と黄の三尺がよく映えて、大喜びのサーヤ。
とても良く似合っていて、笑顔いっぱいでご機嫌の様子
この日は、7月の3歳の誕生日だったと思う。


この絣の着物を思い出したのは、NHKの朝ドラ「花子とアン」の甲府の田舎の尋常小学校の場面から。
生徒全員が絣の着物姿で、男女様々な模様があって「集めるのは大変だったろうな」と思ったことから、「家にもあったな、確か」に繋がったのだ。

ネットリサーチしてみたが、明治・大正時代の田舎の尋常小学校では、大半が絣の着物姿で集合写真に写っている。
絣の着物に、裸足で草履履きが普通だった時代なのだ。

ただし、甲府が舞台の最後の土曜日に、先生の花を送る生徒たちは、全員絣ではなく縞の着物の子もいたし、大人で絣の着物は見られなかった。
それに、主人公の花の家では縞木綿が多く、花も縞木綿の着物姿だったから、絣の着物は少しだけ高級品だったのだろうか。
6月中旬には、花は東京に移るから、絣の子供を見るのは「思い出場面」以外は最後になるのだろう。

その当時の村では、特別な場合以外は和服が中心だったから、女子は和裁が必須で、嫁入りには和裁の腕が買われた、と言う。
花の場合は英語力は抜群でも、和裁は全くの不得手だったようだから、甲府での結婚など全く無理だったということなのだが、実際の村岡花子は甲府の女学校の英語教師だったらしい。

この絣は木綿の生地で「たてよこ・経緯」に織られており、非常に丈夫で「一代着ても破れない」と言われたのだとか。
洗濯にも強いため、生活着としても重宝されたようだ。
古くなっても捨てずに、仕事着などに着まわしてボロボロになるまで使い込んだ様子。

ジャックの家では、子供たちにお下がりとしてどんどん着続けられ、兄弟の後はその子供たちに引き継がれていたようで、我が家の後も何処かへ回っているはずだから、何十年ものの絣の着物と言えるだろう。

絣の歴史は和服の中では新しいほうで、現在の経緯の絣模様の定着は「江戸時代末から明治時代」といわれている。
インドの南方から琉球に伝わり、本州まで伝えられたらしい。
そういえば江戸時代の生活着には、絣ではなく縞の木綿ものが目立っていたように思う。
と言うことは、縞木綿より新しい絣木綿は、ほんの少しだけ高かったのかも知れない。

いつの間にか、縞木綿より絣木綿のほうが広く親しまれ愛されるようになったようだ。。
落ち着きがあって温もりを感じさせる風合いは、縞柄には無いもの。
織り方次第で、大柄から小柄まで、様々な柄行が生まれるのも絣柄の特徴なのだから。

思い出したのは、ユフィの若い頃、道玄坂の久留米絣の専門店で大きな蝶柄の絣地を、雨用に加工して和装コートに仕立てたことがあった。
かなり目立っていたらしく、蛇の目傘を差して渋谷を歩くと、注目の的になったっけ。
ちょっこっと自慢話…
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