やましたさんちの玉手箱
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初節句には留袖の仕立て直しで

真っ赤なほっぺに黒い着物がよく似合う

7月生まれのサーヤの初節句は、8ヶ月で迎えた。
母が初孫のために張り切って、立派な雛壇を買ってくれた。
リフォーム前の2階には、一間の床の間がある10畳の和室があった。

床の間いっぱいに段飾りを並べ、友人親子を招いての[初節句」。
母の孫娘への好意は半端なものではなく、着物も作ってくれそうな勢いだった。
1歳にもならない娘の初節句用の着物に、もったいないと思ったユフィ。

いろいろと考えた末に、母の昔の留袖を解き、仕立て直すことを思いついた。
黒地に白い菊の花などの古典模様は、柄行を考え、3歳くらいまでは着られるように仕立てたから、その後の正月のお宮参りなどには着て行ったもの。
黒い留袖を仕立て直した着物を着たサーヤを抱いて

初節句と言うものを、知らない世代も増えているとは思うが、年末から3月くらいまでは「テレビCM」などが流れているから、「お雛様の季節」ということはすぐに分る。
最近は核家族化が進んでいて、住宅事情もあり、段飾りの雛壇は少ない様子。

我が家でも、段飾りを出していたのは、この床の間があった頃のこと。
母とサーヤが、雛壇の前で振袖姿で写した写真を、油絵に描いてもらったものは、昨年の[ひな祭り写真から似顔絵でジャックが書いている。
この雛壇の出し入れは、時間も手間も掛かって大仕事になるので、自然に飾らなくなったのだと思う。

雛祭りの3月3日は、桃の節句とも呼ばれる「女の子の節句」とされている。
桃の節句は、春の農作業の開始の目安とされ、[物忌みや穢れを祓う」年中行事だった。
形代としての紙人形に諸々の穢れを移し、川に流した「流し雛」の起源が行われていて、男女共に参加したらしい。

平安時代の宮中には「ひいな遊び」と呼ばれる、本物そっくりの小さな御殿や家具・調度を揃え、人形と共に遊ぶ「ままごと遊び」が流行ったという。
「雛祭り」が現在の形に落ち着いたのは、江戸時代のこと。
富裕な武家や商家で、宮中の結婚式にしつらえて雛壇を飾り、ご馳走を整えて「女の節句」として祝ったことがはじまりの様子。

「五月の節句」もまた、同時期の武家や商家から始まったらしく、3月3日は女の節句、5月5日は男の節句とされたようだ。
『初節句』は男女共に、「子供の健やかな成長」を祝って行われる行事で、嫁の実家からお祝いの人形などが贈られる。
江戸時代から続く行事で、現在でも様々な形で、幼稚園や小学校などで祝われているもの。

バレンタインやクリスマスなど、欧米の習慣・行事も取り入れている日本でも、昔からのものは続いているのは嬉しい。
この行事は、新暦になってから現在の3月になったのだが、実際には旧暦の4月にあたるため、桃の花は咲いていない。
元々は、「上巳の節句」とも呼ばれた中国伝来のものでもある。

桃は中国では特別とされていて、桃の実は「神のもの」として特別な実でもあり、「西遊記・孫悟空」の話の発端にもなっている。
また、[桃源郷」は神の国・夢の国ともされている。
日本の神話でも、イザナギが黄泉の国で桃で災厄を追い払った、という話も載っている。

古代から、「不老不死・長寿」「邪気を祓う」「魔よけ」などの言い伝えのあり、桃は特別なもの。
「桃の節句」には、誕生した女の子の行く末が「幸多いものになるように」との、親や家族の願いが込められているのだ。
そして、嫁ぐときにはこの雛人形は持参したものらしい。

我が家では、持参するような家に嫁げるのかどうか、結婚話のひとつもないのだから、雛飾りは天袋に仕舞い放しになりそうだ。
ともかくも、話しを初節句に戻すと、同い年の男の赤ちゃんを招いての「初節句のお祝い」は、何で祝ったのだろう。
仕来りどうりなら、ちらし寿司、蛤の吸いものだったのだろうか。

黒留袖に白いエプロンのサーヤ
とにかく、写真で見るサーヤはまん丸な顔で赤いほっぺで上機嫌
黒留袖に白いエプロン姿で、ボーイフレンドと一緒にはしゃいでいる。
よく男の子と間違えられたサーヤには、赤い着物よりは似合っていると思うが、どうだろうか。
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